ケンブリッジ西洋美術の流れ 絵画の見方

ケンブリッジ西洋美術の流れ 絵画の見方

Add: minary31 - Date: 2020-12-04 04:08:25 - Views: 8395 - Clicks: 5882

第二次世界大戦が終わると、アートの中心はヨーロッパからアメリカに移った。 ジャクソン・ポロックはシュルレアリスムに影響を受けて、無意識の中で絵を描くことを探求し、ボーリングやドリッピングという手法を編み出した。それまでのアーティストがキャンバスを立てて絵を描いていたのに対し、ポロックはキャンバスを床に寝かせて、絵の具缶から直接、絵の具を滴らせ、羽散らかせて作品を作った。 この手法はのちにアクションペインティングと言われて、作成中の姿も注目され、重要視された。. 美術館が入る23階建てのビルの周りを一周し、警備員に尋ねて入口にたどり着き、インターフォンで用件を伝えると扉が開いた。1階から6階(1〜3階:フリーゾーン、4〜6階:展示室ゾーン)が美術館で、大きな吹き抜け空間が開放的で心地よい。レストランもショップも真新しく、開館に向けて準備が進んでいた。 新畑氏は1963年大阪に生まれた。父の転勤で小学校を卒業してから横浜へ引っ越し、子供の頃から絵を描くことも見ることも好きで、小学校の頃より母や叔母によく美術館へ連れて行ってもらったそうだ。そのなかにブリヂストン美術館もあった。小学生のときにはすでに《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》を見ていたのではないか。 高校に入り、美術館学芸員の仕事を知った新畑氏は、将来美術館で働きたいという強い気持ちから、学芸員になるために大学へ通った。当時は都内で膨大な美術展が開かれていた美術館の最盛期。「家に画集があって、画集に載っている絵が美術館で見られることが驚きでした。作品を一日見ていたって飽きない。美術館で一生過ごせたらいいなと思った」と新畑氏。成城大学の文芸学部芸術学科へ入学し、好きな西洋美術を選択。卒論を執筆するにあたり、西洋美術をやるならフランスだろうとフランスのなかで核になる作家を考えた。セザンヌのほか、幾多の重要な画家がフランスにはいるが、ニコラ・プッサン()がどうやらその中心にいる、と考えはじめた。難解で取っつきにくい画家なので相当に悩みはしたものの、最終的にプッサンを選んだ。修論執筆の頃には、この画家の魅力にどっぷり浸かり、迷いなくプッサンを選んだ。その後1992年、同大学大学院の博士課程在学中に職を得て、横浜美術館で学芸員として働き始めた。17年間勤め、年より石橋財団ブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)の学芸員をしている。 セザンヌもまたプッサン同様に難解な画家で、真正面から取り組むのに躊躇していたが、横浜美術館には2点のセザンヌの油彩画があった。さらには「セザンヌ展」(1999)を同僚とともに担当することになり、これがセザンヌを本格的に研究する契機となった、という。「もう腹をくくって、やらざるを得ないという気持ちでしたね。それがセザンヌと向き合った直接的なきっかけです」と新畑氏。セザンヌは目に見えるものと対峙し、対象から受け. 17世紀頃、プロテスタントの台頭に危機を感じたカトリックが信者を呼び戻すため、劇的でインパクトのある作品を求めはじめたのが、バロック美術の始まりと言われています。 イタリアではカラバッジオやルーベンス、彫刻家にはベルニーニが活躍し、スペインではベラスケス、オランダではレンブラントやフェルメールなどが活躍し、暗い画面にドラマチックな光を演出的に描いた作品が多く生まれました。 もっと詳しく. 最初にあげたラスコーの壁画然り、文明と共にいろんな美術(?)と呼ばれるものが生まれた。でもこの時は、歴史の文脈で読むにはバラツキがありすぎて、「昔の人も”表現”をしてたんだなぁ」って感じ。 それから、ギリシャやローマで神殿作ったり、彫刻作ったり。中世に入ると、ローマ美術の流れを組んだキリスト教美術ってのが生まれた。要は聖書の物語を描いたり、教会の装飾をしたり。 それからロマネスクとかあるんだけど、めんどくさいからハショる。その後に出てきたのがゴシック美術。ゴシック美術っていうのは、「キリスト教の世界が抽象的すぎて分かんないw」ってことで、文字が読めない庶民でもキリスト教が分かるように、これでもかってくらい装飾をギラつかせてキリスト教の世界観を表現した時代。 ステンドグラスとかもこの時。ノートルダム大聖堂とかケルンの大聖堂など、いわゆる教会のイメージは多分このゴシック建築。(デッカいアーチがあって、先っちょが尖ってるやつね) この後、100年戦争が起こって、大規模な建築が少なくなっていく。それで美術のメインストリームに躍り出たのが絵画だ。この時期の西洋絵画の見方が分からないって人がまず知っておいて欲しいのは、ほぼ全ての主題(美術の題材)は聖書のワンシーンだってこと。うまいとかうまくないとか以前に、「あぁあのシーンね」っていう見方をすると、すっと頭に入ってくる。 赤ちゃん抱えてる女性の絵があったら、それはほぼ100%聖母マリアとキリストの絵だし、天使が女性の元に降り立つシーンがあったら、それはほぼ100%天使が聖母マリアに「妊娠してますよ〜」って伝えにくる受胎告知のシーンだ。 聖書には旧約聖書と新約聖書があって、いろんな絵画を見ると世代を超えていろんな画家によって何度も同じシーンが描かれたりする。時代や画家ごとにどうやって聖書のシーンを表現していたかを見比べるのも楽しみ方の一つ。 ゴシックの後、時代は近世に移行する。. 330年、ローマの帝都がコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)へ東ローマ帝国として遷都。 これによりキリスト教美術にアジアやペルシアの美術が加わり、15世紀に渡る長きまで続くビザンティン美術が確立されました。 最たる特徴はイコン(聖人像)です。 これは木版や銅板などに聖人を描いたもので、皆似たような顔立ちと決まりきったポーズをしています。 モザイク画やフレスコ画もこの時代に発達しました。. 並/日本語/カバー/ソフトカバー/訳者:高橋裕子 / 冊数 : 1冊 / 刊行年 : 1989年7月1日 第6刷 / 出版社 : 岩波書店 / ページ数 : 108p / サイズ(判型): 25. Bib: BN0313533X.

「美術ってなんかかしこまってるけどさぁ、もっとおしゃれにしたくね?」豪壮で華麗なバロックに対して、優美で繊細なロココ様式が生まれた。 こちらは有名なフラゴナールの「ブランコ」。ふわふわとした木々の中で戯れるフランス貴族の男女と、スカートの中を覗き込むスケベ。下世話なシーンが描かれるのも当時では珍しいこと。 ピンときた人もいるかも知れないけど、あのディズニー映画「アナと雪の女王」でアナが宮廷で「生まれてはじめて」を歌うシーンで登場する。. ケンブリッジ 西洋美術の流れ8 絵画の見方 岩波書店 1989.3. -ケンブリッジ- 西洋美術の流れ 8 フォーマット: 図書 責任表示: スーザン・ウォドフォード 著,高橋裕子 訳.

日本ブームが西洋に影響をもたらしたと同時に、1870年代には今後の美術界で重要になってくる2つの道具が登場。 一つはカメラ。この時、持ち運びできるレベルの既製品のカメラが使えるようになって、もはや写実的ってだけじゃ写真に敵わない時代になったのね。 そして、もう一つは絵の具チューブ。小学校とかで誰もが使うチューブ型の絵の具は実は1870年代に発明されたもので、それまではみんな絵の具の顔料を混ぜて、豚の膀胱に入れて持ち歩いてたの。これまじよ!キンタマを紐で閉じて、必要な時にひねり出して絵の具を使ってたの。考えるとゾッとするよねw 俺がキンタマひねって絵の具出てきたらまず病院行くよね。それはまた別か。 ともかく、それまではスケッチは外でするにしても、着色に関してはアトリエでの制作が基本だったんだけど、絵の具のチューブが発売されてからは、画家が外で活動できるようになったわけ。これかなりデカい発明よ。. . 【tsutaya オンラインショッピング】ケンブリッジ西洋美術の流れ 絵画の見方(8)/ tポイントが使える・貯まるtsutaya/ツタヤ. ソース 1710年代から1700年代後半のフランスを中心に、男女の戯れを画題にし、官能性を帯びたロココ美術が広まります。 ロココは絵画だけでなく家具や服装、装飾などにも見られるようになりました。 サロンがはじまったのもこの時代。 不特定多数の人が絵を見るようになり、美術評論家や画商といった職業が生まれます。 もっと詳しく. ローズマリー・ランバート『20世紀の美術』岩波書店〈ケンブリッジ西洋美術の流れ 7〉、1989年。 記念論集 『美術史の六つの断面 高階秀爾先生還暦記念論文集』編集委員会編、美術出版社、1992年。 脚注. ご存知、ピカソなどのアーティストによって誕生。これが超革命的。だって、今までみんな「光の描き方を変えてみよう」「描く題材を変えてみよう」「色の使い方を変えてみよう」って言ってたのに対して、「視点を変えてみよう」ってことを試みたから。 ルネサンスから続いた一点透視法をやめて、色々な角度から描いたものをつなぎ合わせて一つの画面に落とし込むっていう全く新しいことにチャレンジした。 今までの絵画の常識を丸ごとひっくり返すキュビスムの、当時の人たちにとっての衝撃はやばかったと思う。「いやーーその手があったか!」って。ゴンさんが急に髪の毛伸びたくらいの、悟空が初めてスーパーサイヤ人になったくらいの衝撃走ったに違いない。(伝わんない人ごめん。) この後の芸術家達は否が応でもピカソに影響を受けてきた。のちに生まれた未来派は、名前の通り、「伝統なんて糞食らえ」っていう勢いで、新しい時代にふさわしい機械美やスピード感、ダイナミズムを表現した。戦争をも賛美する未来派はイタリアで起こり、ファシズムにも受け入れられた。. Muttという署名をしただけの作品。 この作品がどうすごいのかって言うのは、アートの捉え方をガラリと変えたところにある。 それまでの美術は、作品自体が美しいとか挑戦的であるっていうところで評価されてたんだけど、デュシャンはもはや作品を作らない。既存のものを「選択し、命名して、新しい価値を与える」ということをし始めた。そして注目すべき点は、「価値を与える」という行為を鑑賞者にも委ねたところ。 受動的に作品を観ていた今までの美術の鑑賞者は、「能動的に作品を解釈」しなくてはいけなくなり、鑑賞者が意味づけをして初めて作品になる。もう今までのマイナーチェンジとはレベルが違う。光とかテーマとか色とか視点とかいう次元じゃない大革命でしょ? 今までの美術のあり方を完全否定したダダは、「芸術とはなんぞや」っていう命題を掲げて、後のアート界に大きな影響を与えた。それから始まる現代アートは「新しい表現をすること」に価値を置くようになる。 デュシャンがアートをもっと奇抜で難解にしたと同時に、もっと面白くした。.

一方で、「絵で表現できるものってなんだ?」って考えた結果、芸術家の思考や精神世界、夢の世界を表現する人たちが出てきた。象徴主義だ。ものごとをそのまま描いたって仕方ない。ものが意味する抽象的な概念を描くべきだっていう動き。だんだん芸術が「現代」に向かって動き始めてるのが分かると思う。 ケンブリッジ西洋美術の流れ 絵画の見方 これは、誰でも知ってるであろうムンクの叫び。スマホで「ムンク」って打ったら、悲鳴あげてる顔文字出るレベルで超有名だけど、これも象徴主義の中で生まれた絵画。 印象派も、象徴主義もどちらも今までの絵画の枠から飛び出そうと挑戦した中で生まれた前衛的な動きだった。 19世紀末になると、アール・ヌーヴォーっていう「新しい芸術」を意味する運動が始まった。建築、工芸品、グラフィックデザインなどの分野で、花とか植物などのモチーフや自由な曲線の組み合わせを使った装飾が誕生。 今までの歴史の様式から離れて、いろんな表現手段を統合しようとした動きでもあり、個性や感受性を重視した動きはヨーロッパ全土に広がった。 しかし、第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなデザインが普及すると、「装飾は鬱陶しい。」って人たちが出てき. ケンブリッジ西洋美術の流れ 〈8〉 絵画の見方 スザン・ウッドフォード ウッドフォード,スーザン【著】〈Woodford,Susan〉 / 高橋 裕子【訳】. . それが19世紀後半になると、社会は構造を変える。「産業革命」だ。資本主義や科学技術が発達し、都市の階級対立が激化した。この産業革命ってのが、美術史にとってはめちゃめちゃ大イベントなわけよ。 ここからアーティストの試行錯誤は加速。 まずは、ロマン主義の流れを組んで「風景ありならもっと身近なこと描いていいじゃん。」って意見が出てきて、写実主義(リアリズム)が登場。現実をありのままに捉える絵が描かれ始め、産業革命によって生まれた階級の差に着目し、庶民の厳しい生活やシーンも美術の主題に加わった。 ロックすぎる!19世紀の破天荒なアーティストに学ぶ「型にハマらない発想術」 これ以降の美術家はマルクスの「資本論」にめちゃめちゃ影響受けてて、プロレタリアート(労働者階級)のアートに着目したり、機械じゃなくて人間が作る意味みたいなことをすごい考えるようになった。 美術品も工業化されて、デザインの概念が生まれたり、逆にハンドメイドが重要視されたり。「ゴシックの時は機械なんかなくて、全部人が作ってたからよかったのになぁ」みたいな懐古主義的なゴシックリバイバル(ゴシックの復活)の考えも生まれたり。. 近世はみなさんご存知、ルネサンスがイタリアで始まるんだけど、簡単に言うと「ギリシャとかローマの美術復活させようぜ」って運動。この動きは、オランダやフランスなど他のヨーロッパでも広がって、15世紀末から16世紀初頭にかけての約30年間は特に大ブームを巻き起こした。 この時、一点透視図法っていう描き方が生まれて、初めて遠近法って概念が採用された。人間は3次元のものを2次元の画面にうまく描く方法を生み出したんだ。これぞまさに一つの大革命。 ミケランジェロとかレオナルドダヴィンチが登場したのもここ。自然科学が発達したおかげで、解剖学の観点から絵を描くやつらも出てきた。 これは有名な「最後の晩餐」。 ルネサンスの後に生まれたのが、マニエリスム。「自然を凌駕する高度の芸術的手法」と定義づけられたもので、「ありのままを描くだけじゃなくって、絵画なんだから誇張したり、大げさに描くのもありっしょ?」って動き。 これはマニエリスムの画家が描いた最後の晩餐だけど、同じテーマでも遠近法の使い方がダイナミックだし(実際より極端)、人のポーズも大げさでしょ? 「ルネサンスとあんま変わんねーじゃん。」って思う. この二つの発明とジャポニズムの流れから生まれたのが、クロード・モネ。 自然光の効果と儚い瞬間の本質を記録することに着目したモネは、カメラにできない繊細なタッチで、屋外の制作に励んだ。印象派と呼ばれる人たちが誕生。 それまでの美術は、画家の筆跡を残すことがタブーとされていて、画家の”個性”を出すことがNGだったのね。それなのに、印象派は筆で書いてます感たっぷりの絵を書いたもんだから美術界は大騒ぎ。でもこれが革命的でもあったんだ。 アートっていうと、”自己表現”っていう感じがするけど、これまでのアーティストはどちらかというと職人に近かった。でも、モネがアート界に”個性”を解禁したから、アートがもっと自由になった。ゴーギャン、ゴッホもこの流れで後期印象派として登場。. オリンピック・パラリンピックイヤー年が始まった。どのような一年になるのだろう。今年注目している展覧会は、国連の世界幸福度ランキングで何度も1位に輝く幸福の国デンマークの心温まる19世紀の名画展「ハマスホイとデンマーク絵画」展(東京都美術館、1月21日〜3月26日)や、いにしえの名品と現代の表現を比較して新たな魅力を発見する「古典×現代──時空を超える日本のアート」展(国立新美術館、3月11日〜6月1日)、世界で活躍する日本の現代美術家が一堂に集う「STARS展:現代美術のスターたち」(森美術館、4月23日~9月6日)、マンガの原点ともいわれる白描の戯画絵巻4巻すべてを一挙公開する「国宝 鳥獣戯画のすべて」展(東京国立博物館、7月14日~8月30日)など。 また、年始早々1月18日にオープンする「石橋財団アーティゾン美術館」(旧ブリヂストン美術館)」も訪れてみたい。新たに収蔵品が加わり、展示スペースは以前の倍(約2,100平方メートル)に広がった。そのアーティゾン美術館の所蔵品から美術館の顔ともいえるポール・セザンヌの《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》を今回は探求してみようと思う。 絵画の父と呼ばれ、画家に愛された画家ともいわれるセザンヌ。林檎のある静物画や、サント=ヴィクトワール山の青い風景画の連作が心に浮かぶ。セザンヌにとってこの山は、水彩や油彩で何度も描くほど重要なモチーフだった。森の中からサント=ヴィクトワール山を眺めたような景色に、黄土色(おうどいろ)のシャトー・ノワールがひと際目立つ。色彩のタッチの重なりがキラキラと輝き、風景が調和した生命体のようにも感じる。 アーティゾン美術館の学芸課長である新畑(しんばた)泰秀氏(以下、新畑氏)に《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》の見方を伺いたいと思った。新畑氏はフランス近現代美術史を専門としており、「開館10周年記念 セザンヌ展」(1999)や「セザンヌ主義 父と呼ばれる画家への礼讃」()と、セザンヌ展を企画担当してきた。東京駅八重洲中央口からほど近いオープン前のアーティゾン美術館へ向かった。 新畑泰秀氏(彫刻はクリスチャン・ダニエル・ラウホ《勝利の女神》大理石、高さ231. ケンブリッジ西洋美術の流れ ; 8 書誌ID: BN0313533X.

ケンブリッジ西洋美術の流れ ; 8 Catalog. 【中古】 絵画の見方 ケンブリッジ西洋美術の流れ8/スーザンウッドフォード【著】,高橋裕子【訳】 【中古】afb. Amazonでメインストーン, マドレーヌ, メインストーン, ローランド, 雅司, 浦上の17世紀の美術 (ケンブリッジ西洋美術の流れ 4)。アマゾンならポイント還元本が多数。メインストーン, マドレーヌ, メインストーン, ローランド, 雅司, 浦上作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. 1889年50歳、パリ万国博覧会に《首吊りの家》(1872、オルセー美術館蔵)などを出品した。1895年56歳になったセザンヌは、画商アンブロワーズ・ヴォラールの画廊で初個展を開催。ルノワール、モネがセザンヌの作品を購入し、1898年には同画廊で二度目の個展が開催された。 1899年60歳、40年間アトリエを構えたエクス郊外の邸宅ジャス・ド・ブッファンを売却し、エクス市内のアパルトマンへ引っ越す。1901年アンデパンダン展やブリュッセル自由美術展などと立て続けに作品が公開され、絵画における真実の追究をしてきたセザンヌの名声は急速に高まっていった。知的で新鮮な野趣溢れるセザンヌの絵画に、エミール・ベルナール()やモーリス・ドニ()ら、若い画家たちがセザンヌから考えを聞こうとエクスを訪ねるようになった。 セザンヌが、ベルナールに宛てた書簡に「自然を球形、円筒形、円錐形として扱いなさい」と記したのは1904年のことであった(雑誌『オクシダン』同年7月号掲載)。同年10月のサロン・ドートンヌで一室を与えられてセザンヌは33点を出品。1906年、戸外で制作中、雨に打たれて体調を崩し、エクス市内ブールゴン街の自宅で息を引き取った。翌日にはエクスのサン・ソヴール大聖堂で葬儀が行なわれ、11月27日パリのノートル・ダム・ド・ロレット教会で追悼ミサが営まれた。享年67歳。エクスのサン・ピエール墓地に眠る。パリの前衛的画家たちに衝撃を与え、アンリ・マティス()のフォーヴィスム、パブロ・ピカソ()やジョルジュ・ブラック()のキュビスム、そして抽象絵画へと20世紀の画家たちに決定的な影響を与えた。セザンヌが近代絵画の父といわれる所以である。.

セザンヌがほかの印象派の画家と異なるのは、印象派に入って間もない頃から「それまでに西洋絵画の伝統を根こそぎに否定していいのか」と、疑問を抱いたところだった。印象派の画家は、自然の変化を正確に捉えそのままキャンバスに写す。ときにそれは筆触や構図、輪郭を軽視するものであった。けれどもセザンヌは絵画の歴史のなかで、それまでのルネッサンス、あるいはそれ以前の油彩画以降築き上げられてきた構図や絵画の永遠性、独自性が一番重要だと思ったのではないか、と新畑氏は言う。 「大事なのは、セザンヌは17世紀のフランスの画家ニコラ・プッサンに関心を持っていたということ。プッサンは画壇を意識することなく、古典古代の芸術と、それを蘇らせたラファエロ・サンティ()の芸術に関心を持ち、限られた顧客のみを対象に調和の取れた重厚な絵画を描いて、絵画世界の追究に専念していた。セザンヌとプッサンの関係は、プッサンとラファエロのそれと同様、視覚上の類似に留まらなかった。歴史的過去と現在に対する両者の態度、そして自然へのアプローチが似ており、この点においてセザンヌはプッサンより古典主義を継承している。セザンヌの生まれた1839年は、ダゲレオタイプ(銀板写真)が発明された年だった。写真とは違うことをしないといけないという意識はあったと思う。人間の目は何を、どう見るか。それを人間の思考がどう考え、どう構成するかを考えた。再現美術であったり、写真的な役割ではなく、セザンヌは印象主義と古典主義を昇華させ、絵画が絵画として存在する“絵画の自立”の端緒を開いた」と新畑氏は語る。 アーティゾン美術館では、開館記念展「見えてくる光景 コレクションの現在地」(年1月18日~3月31日)が開催され、《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》を含む206点が展示される。《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》は、実業家にしてコレクターの原三渓()の長男、原善一郎()が1923年(大正12)にパリで購入し、その後ブリヂストン美術館に収蔵された。 石橋財団アーティゾン美術館学芸課長。1963年大阪府豊中市生まれ。1987年成城大学文芸学部芸術学科卒業、1990年同大学大学院文学研究科美学美術史専攻博士前期課程修了、1992年同博士後期課程中途退学。199. サント=ヴィクトワール山を描いた油彩画は40点を超えているという。「エクスに行けばサント=ヴィクトワール山は誰もが見たらわかる富士山のような存在で、視覚的に見てきれいで心打たれるけれども、絵にしてみると難しい山。標高は1,011メートル、高い山ではないが山には十字架が立っている」と新畑氏。古代ローマ時代の戦役での勝利を記念して、“勝利の聖なる山”と名づけられている。 セザンヌが初めてこの山を描いたのは、1870年、31歳のときで風景画の背景に過ぎなかったが、山をクローズアップして画面の中央に据え連作を描き始めたのは1880年代半ば以降のことで、油彩、水彩、素描が試みられた。 《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》について新畑氏は、「これはセザンヌ最晩年の作品で、これまでの画業の成果が詰まっている。見るポイントのひとつは、箱のようにキューブ状に描かれた建物[図1]。この絵の決め手は建物があるところだ。不定形のもののなかに幾何学的なキューブが入ることによって、絵画のなかで色も形も最大限に効果を発揮している。もうひとつは筆触[図2]。筆触分割★3はセザンヌが発明したことではないが、平筆でセザンヌ独特の規則正しいタッチを繰り返し、しかも筆幅は広くリズミカルに描いている。その一つひとつのリズムが全体のリズムをつくり出しているところが面白い。早描きのようだが筆は丁寧に落としていった。線描が残っているのは、山の稜線とシャトー・ノワール。ほかは輪郭線を取らず、筆触だけで空間をつくっている。セザンヌの絵画は難しいが楽しんで見てほしい」と語った。 ★3──太陽の光を構成するプリズムの7色を基本とし、その一つひとつの色の要素をばらばらに並置して、全体としてまとまった効果を挙げる方法。. パリ美術界には大変革が興りつつあった。権威ある公的なサロン・ド・パリ(官展、通称サロン)に新しい表現を出品しても通らず、落選した画家たちは腹立ちが治まらなかった。セザンヌはサロンに応募するも連続4回落選した。ナポレオン三世は落選者展の開催を決定。アカデミズム重視の偏向を正す新しい波がやってきた。 1869年30歳になり、アカデミー・シュイスでのちに妻となるオルタンス・フィケと出会い、父に隠れて一緒に暮らし始める。普仏戦争中(1870-71)、オルタンスと共にマルセイユ近くのエスタックに住み、パリ・コミューン★1後の1872年にパリへ戻った。息子ポールが生まれる。ポントワーズに居を構えたセザンヌより9歳年長のカミーユ・ピサロ()は、いち早くセザンヌの才能を認め、セザンヌもピサロの前では心を開き、鮮やかな色彩と大胆な着彩を使って日常の風景を切り取る印象主義の手法を学んだ。 1874年セザンヌ35歳、ウジェーヌ・ドラクロワ()、ギュスターヴ・クールベ()、エドゥアール・マネ()、クロード・モネ()らの作品に触発され、セザンヌは第1回印象派展に3点を出品した。翌年ピエール・オーギュスト・ルノワール()を通じて紹介されたコレクターのヴィクトール・ショケ()が、パリの絵具商ジュリアン・フランソワ・タンギー()より3点のセザンヌ作品を購入。1879年頃から印象派を離れ、セザンヌが芸術のスローガンとしていた「感覚の実現」に向けて、構築的筆触★2という技法を多用し、堅牢な秩序のある印象主義を構築する道を模索していく。市場や批評に惑わされることなく、自らの力で見て、五感で感じ、考えて組み立てることにより、絵画における真実の追究をした。 ★1──パリに樹立された1871年3月18日から5月28日の72日間の労働者階級を主体とする民衆の革命政権。 ★2──「斜めに平行して色調を微妙に変えつつ、リズミカルに併置された筆触で、自然を再現しながらも感覚を制御して、画面に自立した秩序を生み出そうとした」。(永井隆則『もっと知りたい セザンヌ 生涯と作品』p. 戦争に対する抵抗、そして虚無感から生まれたのがダダイズム。通称ダダは、今までの常識や秩序を否定して破壊するという思想的な試みが始まった。 マルセル・デュシャンが展覧会に出品した「泉」は、男性用の小便器にR.

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